丸山所長のメッセージ(2005年)

2005年1月

シリーズ3 活動(その2) 体の活動(体操)

 新年あけましておめでとうございます

 今年は戦後60年、阪神大震災から10年…色々なことが総括されて新展開へ一歩を踏み出す年になりそうな気がします。
 さて、皆さんは「老い」に対してどんなイメージをお持ちでしょうか? 身体機能に関して言えば、歩幅が狭い、背中が丸い、高い棚の物が取れない、走れない等々、沢山思い浮かびます。
 実は、老いの現象の多くは廃用症候群なのです。人間の身体は使わないでいると衰える、つまり退化してしまうようになっています。逆に言えば、使ってさえいればかなりの機能維持が可能です。そこで、とっても簡単なもの(体操と言えないかも)を1つ。足のつま先立ちを1分間やってみましょう。フラフラするならどこかに掴まっても結構です。ふくらはぎが吊りそうに感じるならば、もっと短い時間で充分です。

足の裏のメカノレセプターの位置

 体重をかけるポイントは母趾のつけ根です。ここにはメカノレセプターという感覚神経があり、バランス維持に重要な働きをしています。1日に何回でもやりましょう。自然と姿勢も良くなり、腹筋、背筋と下肢の筋肉が適度に緊張してくれます。

2005年2月

シリーズ3 活動(その3) 体の活動(筋トレ)

 筋トレと言っても、マシーンを使ったり汗ダクになる必要はありません。筋への刺激は最大収縮の8割程度で7秒間が最も合理的と言われています。いわゆる中年期以上の方々におすすめなのは腕立て伏せです。屈伸しなくても良いです。床でも机でも壁でも、手をついて身体はまっすぐに、腹を落とさず尻を上げず、頭・首・背中・腰・足のかかとが一直線になるよう腹と尻を締めます。アゴも引きましょう。それから、肘がほぼ直角になるまで曲げて静止を7秒間。その後ゆっくり肘を伸ばして一息ついて下さい。それを10回できる位の高さを探して下さい。手をつく位置は10回が楽になってきたら段々低くして行き、最後は床でやりましょう。毎日続けていると3ヵ月後位には二の腕のゼイ肉が減っていることに気付くでしょう。

2005年3月

シリーズ3 活動(その4) 頭の活動

「人間は考える葦である」…パスカル
 
 そう、私達は思考する動物です。
 思考とは何でしょう?
 生まれた時から周りに声をかけられ、言葉を教えられ、常識を覚えさせられ、人として必要なのかどーかも解らぬまま、折り紙・お絵書きから始まり、歴史に、物理に、喋れない英語に、微分積分…。学んできたことは思考時の材料になりますが、大事なのはその材料を使う意識です。
 かつて覚え貯め込んできたデータは、意識が働かなければ電源の入っていないパソコン状態となります。意識が動き出せば、データ(記憶している言葉・ルール・印象・風景・感情etc)は動きまわり、関連付けや比較や新たな洞察、創造のグッズになります。そして独創性が生まれます。
 でもヒトの思考回路はとてもパターン化しやすいので、柔軟性や拡大性を維持することが大切です。そこで意識を活発にして頭を鍛えるために、3つのアドヴァイスがあります。

  1. 自己の検証:今思っている事は本当に自分の考えだろうか? 誰かから押し付けられ、受け入れてしまったものではないか?
  2. 今に生きる:今思っていることはずーっと前からパターン化しているもので、過去をなぞっているだけではないか?
  3. 嗅感覚を研ぎすます:今のこの空間の匂いは何だろう? 無臭ということはない。衣服の匂い? 紙の匂い? かすかな外気の匂いかな?

と、以上のように日々毎瞬、毎瞬考えてみるようにしましょう。

2005年4月

シリーズ3 活動(その5) 心の活動

 人間は「感情の動物」とも言われます。
 喜怒哀楽の波にもまれて日々を過ごしています。そう、毎日毎日喜んだり、怒ったり、悲しんだり…
 そしてそれがまた人間的でもあり、ちょっと追求して昇華させると感性となって芸術を生み出したりします。
 そういった感情の主座は心にあると思います。あなたの心の状態は今、どんなですか? 基調というものがありますが、私の場合は概ね「悲しい」気分が占めています。この現代社会にあって、違和感を強く感じます。戦争、飢餓、犯罪…それらの情報に限らず、日常的に見かける人間の傲慢さ、貪欲さ、権力への執着…あーあ、キリがない。なんて悲しいことの方が多いんだろう?
 強い者は弱い者を保護し支えるべきなのに、何故搾取することばかりに没頭しているんだ!! 若い頃はそんな風に嘆き悲しんで泣いていました。そこまで悲しい気持ちにさせているのは「心」なのですね。そして、その心を培っているのは、価値観なのです。
 最近は、涙は出ません。「悲しい」その時、その背景にある自分自身の価値観、正義感、考え方を観察してみます。そして、価値観の体系づくりに取り組みます。幸い、私の心には「博愛」がありました。悲しみと愛を足して「慈悲心」になるように工夫しています。あなたも、あなたの「心の動き—感情」を眺めてみませんか。しばし、ホンロウされずに。

2005年5月

シリーズ3 活動(その6) 自己表現と他者

 私達人間は一人一人がとてもユニークな存在です。顔が違うように、みんな豊かな個性を持っています。この広大な宇宙で、あなたはあなた一人しかいません。「唯一無二」の存在なのです。
 生きているということは身体(本能)と頭(知性)と心(感情)が各々に反応し、その時の自分を表現して行くのです。しかし現代の日本人は、儒教や修身の思想の影響だと思いますが、自己を抑制することに「美徳あり」的な考え方を持っています。穿った見方をすれば、文化人類学者ルース・ベネディクトが「菊と刀」で述べたように恥の文化、つまり他者の目を意識させるような社会規範の下で集団を存続させていく支配構造が定着しているということになります。
 それゆえ、多くの人が自分なりの「ものさし」を作って、長い、短い、良い、悪い等々常に裁いているのです。他者を裁くと同時に自分をも裁いて活動に規制を強いており、健全な自己表現ができなくなってしまいます。しかし自分らしさを表現することで、他者との間で不具合が生じるならば、知恵を絞って工夫が必要です。いずれにしても現代において根拠の乏しい一時代の価値観(明治時代が主で、そこに敗戦コンプレックスが加わっていると思う)にものさしが染められているとしたならば、見直しが必要ではないでしょうか。
 時代は変わり、一つ一つの個性が自己表現をしたがっています。抑圧によって病気が出てくることがあります。医者として見逃す訳にはいきません。他者も自己と同じ、個性豊かな存在です。それを忘れなければ、大いに自己表現をすべきであると私は思います。
 次回は健全な自己表現、つまり自己統合のコツについて、考えてみたいと思います。

2005年6月

シリーズ3 活動(その7) 自己統合1

 何故ヒトは思い悩むのでしょう? 何故ヒトは迷いを体験するのでしょう? 通常ヒトとは向上心を持っている動物であると私は考えます。つまり、漠然としていながらも、こうあるべき、またはこうありたいという理想を持っているのだと思っています。そして、現実とその望みのギャップを何とか埋めようと苦悶している時間が長くなると、諦めてしまうか、囚われのまま心身に病的な状態を生じさせてしまうか、とういう結果になります。
 私達の生きている現代社会は情報量が多く、理想像と現実像との隔たりをとても大きく感じてしまいます。二極化が誇張されてしまう時代なのです。いわゆる物を見る色メガネや、裁くためのモノサシの種類も沢山ありすぎるのです。
 基本に戻りましょう。まずしっかり分類しましょう。理想とは、利己心を含まないものです。そして現実の日々を過ごさせ、突き動かしている発端の殆どは自己保存のための身体的潜在意識から来ています。動物として生存の為の能力として保身、つまり顕れとしては利己心が作用しているのです。そこがヒトの中で主権を握ると、物欲・権力欲等に執着することになります。1ヶのおまんじゅうを10人で取り合うような世界がくり広げられていくのです。
 あなたは主権をどこに置きますか? あっちにやったり「イヤイヤ、これではいけない」ブツブツ言いながらこっちに置いたり、またどこに置いたら良いかわからず手に持ったまま? あるいは「こんなものがあるから迷うんだ!」と放り出してしまったり… 自己の中のどこにどの位の割合で主権を委ねているのかによって、その人の生き様が決まります。それを知っているかどうかで心の安定性に差が出てくるのです。
 次回はやや具体的な話にもって行きたいと思います。

2005年7月

シリーズ3 活動(その8) 自己統合2

 さて、今回はシリーズ3の最後となります。

 利己心は生身の人間として当然あるべきものです。そして利己心とは異なるレベルの利他心(良心)をも生来的に持っているのが、ヒトという生き物です。
 どちらもヒトに備わっている属性であるため、物事の認識が出来るようになると自他の違いから混乱が生じ始めます。
 覚えていますか? あなたが初めて混乱した時の事。概ね4才〜7才位で体験していると思います。「いい子だね」と誉められたいからではなく、例えば自分のお菓子を友達に分けてあげた時「半分ずつね」と言いながら…。でも半分にすることに迷い、葛藤、混乱が一瞬横切るものです。
 そのような混乱もなく、傲慢さや偽善あるいは奉仕に耽溺している為に行うのでなく、純粋に半分以上を他者にあげられる人は滅多に存在しません。いわゆる聖なる人でしょうね。では混乱せずに行為を通して自己を表現するにはどのようにしたら良いのでしょうか? とにかく、半分つまり中間に決めてしまうのです。利己心と利他心を半々に生かすのです。自分の本質を見つめていかないと出来ない事ですが、とにかく自己と他者を同様に認識するならば、そこから生じる行為のメリットに気付くようになります。その気付きの繰り返しにより混乱もなく自己にも目醒めていくのです。半々に、つまり中庸を常に意識することが自己統合のコツとなります。

追伸:梅雨になっても当院での風邪ウイルス群の検出率が減少しません。免疫を正常に保っておくことがとても大切です。食シリーズの復習になりますが、少食、1日に水2L(空腹時200mlまで)をぜひ心掛けてみて下さい。あなたの健康のために。

2005年8月

シリーズ4 無題(その1) ふと思うこと

2005年9月

シリーズ4 無題(その2) 芽

 小さな命が果つる時、この手の中に世界中の悲しみと悔しさが鉛のように重く、冷たく滲み込んでくる。ガックリと垂れたコウベに、「ご苦労様でした」とも「素晴らしい体験でしたか?」とも語りかけられない。ただ無言で私は生まれ出ずることの意味を探がす。
 
 在ることは、未知の体験と無限の可能性と選択しきれない多様性を秘めている。この世に産まれたばかりの存在も、幼い存在も老いた存在も広大な未来の多様性からみればほぼ同等に位置するのかもしれない。
 何故、幼い存在に対して感傷的な深い悲しみが湧いてくるのだろう。親御さんのこの世のものとは思えない号泣が聞こえるから? 魂の抜け殻のような蒼白の放心状態に接するから? 大きな悲しみの波動の中で、今まさに芽吹こうとしている意志が消え去ってしまったから?
 
 体験を重ね自己の可能性を拡大させ、在り方として進化していくことが生きる目的ならば、生まれ出ずることも体験の1つであり、充足・不足の尺度を超えて意味あるものだと思える。本人の意識の変化や成長は他からは推り知れないものであり、感傷的に善し悪しと分別する領域ではないと識る。
 
 生きていることは、皆同様に今その時の選択を自己の意志でくり返していける権利を持っているということであり、次の瞬間の飛躍を内に持っているということである。その意味では、すべての人が可能性という芽を沢山持っていると私は考える。

2005年10月

 ちょっと忙しいので、お休みさせていただきます。

2005年11月

スタッフ募集しています。
資格不問、年齢は20歳から34歳くらい、業務の内容は当院の調剤、診療全般の補助、勤務はフルタイムまたはパートタイム。詳しいことは診療所にお問い合わせください。
 
2005年11月24日 スタッフ募集は終了いたしました。

2005年12月

シリーズ4 医の話(その1) 長所短所

 健康って何? という疑問からgood conditionに向けて私のメッセージは繋がっていきます。
 今月からシリーズ第4弾として「医の話」を始めます。
 
 医学部に入学して間もなく講義で「医学の父:ヒポクラテス」とその誓詞という話を聞きました。紀元前460年? 今のギリシャのコス島で生まれ父親から医学を学んだと言われています。それまでのシャーマニズム的な医術から迷信や呪術を切り離し、医師の倫理性と客観性を重んじた人で、誓詞は現代日本の殆ど(たぶん)の医学部で1度は習うものと思われます。
 
何項目かあるのですが、私は2つだけ覚えています。
 1. 患者の健康と生命を第一とする。
 1. 患者の秘密を厳守する。
 その他、「人道、威厳、名誉」等々の言葉があったと覚えています。そんなヒポクラテスさんは、文献的にたどってみると医学には二通りあり、「同種療法」と「異種療法」という風に分類していたようです。例えば熱がある時、身体を暖めるのは同種、冷やすのは異種と捉えると解り易いと思います。
 さて、現在の日本では明治時代にドイツから持って来たアロパシー(異種療法)と言う名の医学が主流となっています。ところがドイツではホメオパシー(同種療法)も同時に提供されているのです。私がシカゴに留学していた時、コンビニのドラッグコーナーにはアロパシーの薬とホメオパシーの薬が同じように売られていました。それぞれに長所・短所があり、臨機応変に使い分けるものなのです。
 私は医者になって1年も経たない頃「この西洋医学だけでは病気は治せない。何かが足りない!」そんな思いにかられ、N大学医学部では決して教えてくれない世界の医学・医療に目を向けるようになりました。
 今年でツボ(急所・経絡)の勉強を始めてから31年(内容、密度は別にして始めてから…)漢方薬の勉強を始めてから15年。生薬煎じ薬の勉強を始めてから7年が経ちます。
 次回は東洋医学(…神秘的で魅惑的な世界を想像しないで下さい)の話をしましょう。

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